1970 | 34歳 | ボストンマラソン初参加(米国) |
昭和51年(1976年)4月21日(水)読売新聞 13版(14) 苦しく、すばらしいボストンマラソン ゴール瞬間目がかすむ 猛暑、”美女の誘惑”に 耐えた4時間 完走記 麻生花児 ボストン美術館大学教授 出発点のポプキントンで気温32.2度、中間地点ウェルズリーでは実に37.7度を超すという、凄まじいコンディションのなかで、恒例のボストンマラソンがおこなわれました。今年は、日本からも選手が多く参加して、国際色豊かというより、日本色が濃いといった感じでした。 それにしても、苦しいマラソンでした。ポプキントンという小さな町を正午に出て、午後4時13分に、ゴールのボストン市の中心、プルデンシャル・センターにたどりついたのです。 スタートから約1マイル(約1.6キロ)は急な下り坂です。ゆっくりとスタートした私には、長い三角形がどんどん長くなって、つまりトップグループが先へ先へと伸びていく様子がよく見えました。出発して3−5キロは、見物人に混じって、うしやうまの長い顔も見えました。のどかな牧草地帯なのです。 「ゴー!ゴー!ゴー!」と、人がきを作る観衆は拍手で送ってくれました。私に好意を持ってくれていたようです。9.6キロで、フラミンガムという町にはいります。小どもたちが、ランナーにサービスするためのオレンジを持って立っております。いつもの調子で16キロまでは、ゆっくり行きました。1時間20分かかっています。足の回転が思ったより良く、気持ちよく走っていました。 ネイチックという町を過ぎると、コースは森の中を抜けて行きます。りんごの枝が、白い花こそつけていませんが、頭上を覆い、緑のトンネルです。ランナーの間隔が次第に開き始め、次第に調子の出てきた私は一人、二人、三人と抜いていきます。22.4キロ地点、ここはヴェルズリー・カレッジの所在地、女子学生が左右両脇に並んで華やかな応援を送ってくれます。ギリシャ神話に出てくる英雄ユリシーズが、魔女サイレンの誘惑の呼びかけから身を守るため、帆柱に体を縛りつけたという話を思い出させました。ここで美女の誘惑に負け、つまりカッコのいいところを見せようと速いペースで走ろうとすると、必ず後で苦しくなるのです。毎年ここでキスをもらって調子に乗りすぎ、後でバッタリと倒れる走者が続出します。 私はここをゆっくり通り抜けました。この後3.2キロのだらだらの上り坂、1.6キロほど急な下り坂、毎年各国のベテラン走者がペースを乱すところです。苦しくなってきました。暑い太陽に気が遠くなりそうです。観衆がホースで水をかけてくれます。一息、一息つきながら、心臓破りの丘に入りました。それにしても耐え難い暑さです。ランナーが熟れ過ぎた果実のように、ばった、ばったと音を立てて芝生の上に倒れていきます。 私も肩と腰に鉛が張り付いていくような重さと痛さを感じ始めました。ハートブレイクヒル(心臓破りの丘)は本当に意地悪な坂でした。誰もが言っておりました。『坂は問題ではない。坂がある場所が問題だ』まさに実感です。 家族連れが楽しそうに芝生の上に毛布を敷き、コーラを飲みながら応援してくれる光景が目に入ります。「ゴー!ゴー!ゴー!ジャスト(残りたったの)8マイル12.8キロ」という声。 歯を食いしばっている、こちらにしてみれば”たったの”どころではありません。観衆の多くは、私たちのチーム「レッドスネーク」を覚えていて、盛んに応援してくれます。4つの坂を過ぎました。一つ一つの坂を上りつめるごとに心臓が爆発しそうになりますが、その度に青い空が眼前に広がり、また力がわくのです。 ボストン・カレッジに着きました。あと4マイル(約6.4キロ)。ゴールのプルデンシャル・センターがかすんで見えてきます。もう市街地。どこかの大学のブラスバンドが励ましてくれます。ステレオのスピーカーを窓にとりつけて、ロックを流している人もいます。ふだんはあまり好きでないロックも、このときばかりは耳から冷たい水を飲む思いでした。 最後の小さな坂を超えると、ボストンの街中で、観衆の数が急にふえて、道幅も狭くなります。ゴール前3キロあたりから、力がわいてきました。毎度のことながら不思議なことです。これで七度目のボストン・マラソン・ゴールインです。 瞬間くらくらと目がくらみましたが、すぐに元に戻り、両腕をチームのメンバーに抱えられて、深呼吸。まさに「スバラシキかな、人生」でありました。 1996年 ボストン郊外ポプキントン:テレビ中継
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青梅マラソン(日本) | |||||
1976 | 40歳 | ボストンマラソン タイム4時間 | |||
2004 | 67歳 | ボストンマラソン34回連続完走 | |||
2005 | 68歳 | ボストンマラソン35回連続参加 | |||
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